乙女と少女の違い

tofu22004-11-08


乙女っぽい映画は苦手だけど、これは何となく、引っかかる部分が多かった。理由は乙女じゃなくて少女モノだったから、なんじゃないかなと。ってことで、感想。

『シルヴィア』

イギリス・アメリカ/110分/2003年/監督:クリスティン・ジェフズ/出演:グウィネス・パルトロウダニエル・クレイグジャレッド・ハリスマイケル・ガンボン



実在したアメリカの女流詩人で、唯一の長編小説にして、女の子版「ライ麦畑でつかまえて」と言われる「ベル・ジャー」を執筆したシルヴィア・プラスの物語。これは気の強い乙女の物語ではない。一途で純粋で感受性の強い少女の物語だ。


32年生まれの彼女は、成績優秀でフルブライト奨学金を受けて、ケンブリッジのニューナム・カレッジへ留学し、56年にパーティで知り合ったハンサムな桂冠詩人テッド・ヒューズと恋に墜ちて結婚。2人の子供を授かり幸せな結婚生活を送る…、はずだった。でもダンナはハンサムで有名な詩人。いわばセレブなハンサムさんなものだから、モテないはずがない。だからこそ好きになったわけだけど、とはいえダンナが他の女とチャラチャラしている姿を見ていい気分でいられるはずがない。とくにシルヴィアの感受性は人一倍強い。ワガママではないけれど、一途で純粋、裕福な家庭に育ち、美人で優秀、挫折をあまり知らずに大人になったものだから、心はいつまでも少女のままだから。しかもバカじゃないからダンナの浮気に気づくわけで、だけどダンナ奪回のための駆け引きするとかの発想がない。やることといえば、少女が好きな男の子と仲良くおしゃべりしている女の子を見て、その男の子に嫉妬心をぶつけるようなことしかできない。そんなことをする大人の女性は、ただの感じ悪い人に見えちゃうだけ。でも彼女はそれしかやり方を知らない。それは彼女の資質。


彼女は8歳のときに父親と死別しているので、好きな男性に父親像を重ねて見ているところがあるはずで、不満をギャンギャン相手にぶつけるくらいの行動しかとれない。ダンナ奪回の策略を練るとかの発想がないのだと思う。あったとしても、生きるための戦略を駆使して成り上がるような類の人じゃないし、そういうことに執着がないから、結局うまくいかないし。これが夢見る乙女だったら、好きな男を奪回するために、ガシっと女の本能を無意識に発揮するはず。乙女っていうのは、大人の女のことだからね。だから、乙女度数の高い女性がこの映画を観ても、共感できる部分が少ないような気がする。ただの甘ったれたワガママ女に見えてしまうかもしれないから。


ではなぜ、シルヴィアが貪欲にダンナを取り戻す行動をしないかというと、彼女には、人が言うところの「パッション」が表に出ない質だがら。というか、愛する人への感情は同じなんだけど、表現方法が分かりにくいっていうか、気取っているように見えちゃうけど、表に出す方法が分からないから、何にもしないでワガママ言っているだけのように見えるってだけなんだと思う。ちょっとばかり裕福な環境で育ってしまうと、そうなってしまうものなんだと思う。それはもう、本当に彼女の資質としか言いようがないもので、これはしょうがないわけなんだけど。


この部分に共感できないと、映画全体を理解できないような気がする。才能ある詩人の夫婦って大変だなあ、とかくらいにしか見ることができないでしょうね。何だろう、これは、何ていうか、そういうもんなんですよ。説明するというよりも何かを感じ取って何となく理解するしかない。彼女が執筆した唯一の長編小説「ベル・ジャー」は、JDサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」女の子版だというから、きっと原作には、何かヒントになる空気があるのかもしれない。「ライ麦畑でつかまえて」が好きか嫌いかって、結構重要な要素だから。


でもって、他の側面として、彼女には成績優秀で文才もあったものだから、詩人として成功したいという野心が純粋にあった。でも自分の作品が、セレブのダンナのように認めてもらえない、という現実が目の前にある。そうすると、なんだか気分も落ち込んでしまい、そういう状態では、作品を書く気にもなれない。元々裕福な環境で育っている彼女なだけに、職業として作品を生み出すことに慣れていない。そんな姿はダンナから見れば怠慢な姿勢に見えてしまう。でもそれは男の驕り。彼女は、ダンナの才能を見抜く能力はあるので、結婚前後、ダンナを売り込む手伝いをしていた期間がある。でもダンナは彼女が彼に費やした労力と時間を棚に上げている。男ってのはみんなそんなもんなんだけど、シルヴィアはそれを受け入れられるほど大人(乙女)ではない。純粋な気持ちをそのまま持ち続けてしまっている少女なわけだから。


感受性の強い少女が毎日受ける辛い気持ち、それが積もり積もって、精神的な視野が究極に狭くなってしまった時、やりきれない気持ちを文章にぶつけるわけだけど、その文章が世間に評価される前に、彼女の辛い気持ちは彼女の精神的許容範囲を超えてしまって、62年、30歳の時に自らの命を絶ってしまう。シルヴィア・プラスは、最期まで乙女(大人)にはなれなかった。だからこの映画は乙女の映画ではない。純粋で一途な少女の物語なのだと思う。

グウィネスのかわいい写真があるので。ファッション写真界の貴公子、マリオ・テスティーノによる写真です。